2007.01.26 (第3話) 私が社交ダンスを始めた“本当の理由” Ⅲ
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昨日の「どうしようかなぁ…」の中身は、
「どうやって両親をだまそうか」である。
“だます”なんてとんでもなく聞こえが悪いが、これは私なりの両親への“愛”のカタチ。そのまんまのキツーイ本当を告げるよりも、ずっと“誠実”な行為にも思うのだが・・・。
「私のことでイラン心配をかけたくない」
「良い部分だけを見ておいてもらったほうが、お互い気持ち良くいられるじゃない」
そういえば、いつの頃からか、ズーッとそんな思いが根底にあって、
色々な行動をとるようになって来たなぁ…
なぜって、両親そろって生真面目。
世の中の常識を重んじて、特に疑わない。
それが本当に正しいのか!?なんていう、「前提をくつがえす話」にはいたって弱く、
「ねー何で空は青いの?」的な、幼子特有の天然発想型クエスチョンに対しては全く満足に答えられないタイプであった。
私は小さい頃から、
「何で?なんで?ナンで?」と聞きまくりたいほうで、
「コレ、なんだか変だぞ」「意味が分からないぞ」的なことがあると、
ビービー泣いて家族にアピール。
何らか自分の納得のいく答えを勝手に探し出すと、途端にご機嫌になり静かに一人遊びに徹していた、親の言う『ちょっと変な子』だった。
そんな私の多くの「?」に対し、両親は、
「そんなん、知らんやん」
「考えたこともないわ」
「みんなそうやってるじゃねえか(父)」
「ジュンコ、そんなこと言ってたら、世間で笑われんで」
・・・が決まり文句。
そのくせ、「我が家の常識は世間の非常識」もいっぱいあった。
例えば、
タコ焼きのタコは絶対食べてはいけない
理由→消化が悪くお腹をこわすから
買ってきたタコ焼きのタコはすべてほじくり出して、外側だけ食べていた。
「ホンならなんで、タコ焼き買うねん!?」
の問いに対する明快な答えは、ナシ。
クリスマスケーキは、アイスクリームケーキでなくてはならない
理由→生クリーム、バタークリームは身体に悪いから
これも根拠はナシ。
ひょっとしてその頃から娘にダイエットを教えようとして?そんなバカな。
ハム・かまぼこ・豆腐などは、決してナマで食べてはいけない
理由→ジンマシンができたり、お腹をこわしたりするから
ナマモノ全般に(もちろん賞味期限に関わらず)徹底的に熱処理を加える。
「ちょっとぐらいまずくなっても、身体に安心なほうがええヤン」と母。
食べ物のことバッカリのようだが、まぁ、ここに上げたのはほんの一例。
衣食住に関して他にもいろいろある。
そんなこんなの小さいことばかりかもしれないが、大真面目で必死な話。
両親の言い分はこうだ。
「お姉ちゃんも、あんたも身体が強い子じゃなかったから」
子供を大切に思う親の“愛”なのだ。
しかし!!
冬は毛糸のパンツは必須。グルグル巻きにするほどに暖かくしないとダメ
理由→すぐ風邪を引くから
って教えられてきたけど、
厚着しすぎて汗かいて、結果風邪を引いちゃうことも多かったじゃない!
タコ焼きのタコだって、お母さんの目を盗んで食べたことあったけど、なんともなかったよ!
ケーキやナマモノだって食べてみれば、大丈夫かもしれないでしょ!!
「恐がらないで、楽しい体験、もっともっとしたいよ」
ジュンコちゃんは、そう叫びたかったんだと思う。
でも、「矛盾」「本末転倒」
そんな言葉も持ち合わせていなかった幼い頃、
ズーッと身体のどこかにためていってたんだろうな、子供なりの不満・ストレスを。
「何が正しいか正しくないのかの基準が、個人的であったり、世間であったりとブレまくり、しかもそんな事態に全く気付いていない、またそれに対して適切な答えも持ち合わせていない」
親をそばで感じ続けながら、
“両親こそが、この世で一番正しい存在である”との“すりこみ”は徐々にはがされ、
「ほんなら、一体何が正しいのだ!?」
の思いがたまりにたまり、
とりあえず導き出すに至った、自分なりの“真理”が、
「両親が言うことと、反対のことが正しいのではないか!?」
という発想だったのだ。
ということは、絶対にダメ出しされる社交ダンスは、やったほうが良いこと・・・。
かくして、
1親には内緒で入部
2できるだけ隠し続ける
3隠し続けられなくなったら、社交ダンスとは言わず似たような別のものを言う。
「お母さんらはたぶん知らんと思う、変わったダンス」とか適当に答えよう。
と心に決めた。
挑戦してみよう、ナンだって。
もう大学生なんだから。
これも「石橋をたたいて、たたいて渡らない」両親への一種の反発だった。
子供のサークルにまで口を出し、アレが正しい、これが悪いと引っ掻き回される、
過保護・多干渉という我が家の伝統、愛情モドキなど、
もうイヤだ。
これを機に「親に褒められるのがうれしくて」がんばる、優等生の良い子ちゃんも、
返上だぁ!!
こうして、
「関西大学・国文学部」ならぬ、「社交ダンス部」に入学、と相成ったのであります。
→→→生徒さんへ、こんな話
ジュンコ先生が「社交ダンス界の常識はスポーツ界・真の社交界の非常識?」の目線から、皆様にレッスンしてきた理由は、どうもこんなところにあったようで。
一歩間違えば対立関係を作り出し、孤立してしまう危険性のある自らの“目線”を、正しい方向にたびたび修正できたのも、
「仲良くしないと上手になれない」社交ダンスの特長と、そんな“変”な先生の言うことを信じつつ、真剣にがんばり、自らの身体で手ごたえをつかみつつある皆さんのおかげ・・・。
ありがとう。(色んな意味で親にも感謝)
社交ダンスは、私の色んな方向からの「?」に対し、完璧に近いまでの答えをくれるものでした。
こちらの学びが進むほどにまた新たな「?」が生まれたりして、いつも新鮮で面白い!だから今も携わっているのです。
皆さんも、そうであればいいなぁ。
続く 第4話へ
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昨日の「どうしようかなぁ…」の中身は、
「どうやって両親をだまそうか」である。
“だます”なんてとんでもなく聞こえが悪いが、これは私なりの両親への“愛”のカタチ。そのまんまのキツーイ本当を告げるよりも、ずっと“誠実”な行為にも思うのだが・・・。
「私のことでイラン心配をかけたくない」
「良い部分だけを見ておいてもらったほうが、お互い気持ち良くいられるじゃない」
そういえば、いつの頃からか、ズーッとそんな思いが根底にあって、
色々な行動をとるようになって来たなぁ…
なぜって、両親そろって生真面目。
世の中の常識を重んじて、特に疑わない。
それが本当に正しいのか!?なんていう、「前提をくつがえす話」にはいたって弱く、
「ねー何で空は青いの?」的な、幼子特有の天然発想型クエスチョンに対しては全く満足に答えられないタイプであった。
私は小さい頃から、
「何で?なんで?ナンで?」と聞きまくりたいほうで、
「コレ、なんだか変だぞ」「意味が分からないぞ」的なことがあると、
ビービー泣いて家族にアピール。
何らか自分の納得のいく答えを勝手に探し出すと、途端にご機嫌になり静かに一人遊びに徹していた、親の言う『ちょっと変な子』だった。
そんな私の多くの「?」に対し、両親は、
「そんなん、知らんやん」
「考えたこともないわ」
「みんなそうやってるじゃねえか(父)」
「ジュンコ、そんなこと言ってたら、世間で笑われんで」
・・・が決まり文句。
そのくせ、「我が家の常識は世間の非常識」もいっぱいあった。
例えば、
タコ焼きのタコは絶対食べてはいけない
理由→消化が悪くお腹をこわすから
買ってきたタコ焼きのタコはすべてほじくり出して、外側だけ食べていた。
「ホンならなんで、タコ焼き買うねん!?」
の問いに対する明快な答えは、ナシ。
クリスマスケーキは、アイスクリームケーキでなくてはならない
理由→生クリーム、バタークリームは身体に悪いから
これも根拠はナシ。
ひょっとしてその頃から娘にダイエットを教えようとして?そんなバカな。
ハム・かまぼこ・豆腐などは、決してナマで食べてはいけない
理由→ジンマシンができたり、お腹をこわしたりするから
ナマモノ全般に(もちろん賞味期限に関わらず)徹底的に熱処理を加える。
「ちょっとぐらいまずくなっても、身体に安心なほうがええヤン」と母。
食べ物のことバッカリのようだが、まぁ、ここに上げたのはほんの一例。
衣食住に関して他にもいろいろある。
そんなこんなの小さいことばかりかもしれないが、大真面目で必死な話。
両親の言い分はこうだ。
「お姉ちゃんも、あんたも身体が強い子じゃなかったから」
子供を大切に思う親の“愛”なのだ。
しかし!!
冬は毛糸のパンツは必須。グルグル巻きにするほどに暖かくしないとダメ
理由→すぐ風邪を引くから
って教えられてきたけど、
厚着しすぎて汗かいて、結果風邪を引いちゃうことも多かったじゃない!
タコ焼きのタコだって、お母さんの目を盗んで食べたことあったけど、なんともなかったよ!
ケーキやナマモノだって食べてみれば、大丈夫かもしれないでしょ!!
「恐がらないで、楽しい体験、もっともっとしたいよ」
ジュンコちゃんは、そう叫びたかったんだと思う。
でも、「矛盾」「本末転倒」
そんな言葉も持ち合わせていなかった幼い頃、
ズーッと身体のどこかにためていってたんだろうな、子供なりの不満・ストレスを。
「何が正しいか正しくないのかの基準が、個人的であったり、世間であったりとブレまくり、しかもそんな事態に全く気付いていない、またそれに対して適切な答えも持ち合わせていない」
親をそばで感じ続けながら、
“両親こそが、この世で一番正しい存在である”との“すりこみ”は徐々にはがされ、
「ほんなら、一体何が正しいのだ!?」
の思いがたまりにたまり、
とりあえず導き出すに至った、自分なりの“真理”が、
「両親が言うことと、反対のことが正しいのではないか!?」
という発想だったのだ。
ということは、絶対にダメ出しされる社交ダンスは、やったほうが良いこと・・・。
かくして、
1親には内緒で入部
2できるだけ隠し続ける
3隠し続けられなくなったら、社交ダンスとは言わず似たような別のものを言う。
「お母さんらはたぶん知らんと思う、変わったダンス」とか適当に答えよう。
と心に決めた。
挑戦してみよう、ナンだって。
もう大学生なんだから。
これも「石橋をたたいて、たたいて渡らない」両親への一種の反発だった。
子供のサークルにまで口を出し、アレが正しい、これが悪いと引っ掻き回される、
過保護・多干渉という我が家の伝統、愛情モドキなど、
もうイヤだ。
これを機に「親に褒められるのがうれしくて」がんばる、優等生の良い子ちゃんも、
返上だぁ!!
こうして、
「関西大学・国文学部」ならぬ、「社交ダンス部」に入学、と相成ったのであります。
→→→生徒さんへ、こんな話
ジュンコ先生が「社交ダンス界の常識はスポーツ界・真の社交界の非常識?」の目線から、皆様にレッスンしてきた理由は、どうもこんなところにあったようで。
一歩間違えば対立関係を作り出し、孤立してしまう危険性のある自らの“目線”を、正しい方向にたびたび修正できたのも、
「仲良くしないと上手になれない」社交ダンスの特長と、そんな“変”な先生の言うことを信じつつ、真剣にがんばり、自らの身体で手ごたえをつかみつつある皆さんのおかげ・・・。
ありがとう。(色んな意味で親にも感謝)
社交ダンスは、私の色んな方向からの「?」に対し、完璧に近いまでの答えをくれるものでした。
こちらの学びが進むほどにまた新たな「?」が生まれたりして、いつも新鮮で面白い!だから今も携わっているのです。
皆さんも、そうであればいいなぁ。
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