2015.01.24 (第2923話)チョット中休み エッセイvol.102 ~自分のスキにできない人生〜
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チョット中休み エッセイvol.102
自分のスキにできない人生
~ファミリー・トラブルは愛の勉強!?(2)~
今、母は、施設に入っている。
認知症グループ・ホーム
姉、ヒロコの情報によれば、母は軽度な方だと言う。
病(やまい)特有の症状はあるものの、
自分のことは自分でデキルし、
家事もやる気があり、料理もこなす。
「もし、お父さんさえソノ気になったら、
施設に入れる必要なんてない」
BY ヒロコ
十分、在宅で介護できる範囲内だという。
が、父は拒否した。
「ずーっと我慢して生きて来たのに、
どうして、母さんの面倒を、
みナイといけないんだ!?」
“ずーっと我慢”の内容を話しておこう。
父の田舎は長野県。
義務教育過程終了ソコソコに、畑仕事を強いられた。
父は、勉強がスキだった。
進学を望んでいた。
が、
「次男に、その必要なし」
一方、長男サンは、
大学まで卒業させてもらっている。
父は、そのことをずーっと恨んでいた。
反面、父にとって“信州・安曇野”は、
“思い出深いふるさと”であり“執着の地”
でも、あった。
結婚後も長野の実家にだけは、
中元、歳暮を送り続け、
“良い顔”を貫こうとした。
ソンナコンナで、
父と母は、しょっちゅうモメていた。
今から思えば“養子”になったのも、
“我慢”によるものだったのかも知れない。
「妻の性を名乗り、家・財産を継ぐ」
父にとって、
相当なプレッシャーだったろうが、
余命わずかだった祖父の遺言によるもので、
誰も反対できない状況だった。
「立派な家を継がせてもらって・・・」
と、感謝の気持ちも本当だったろう、
しかし、反面、
祖父と比べられるポジションを嫌っていたはず。
ここでもモロモロ我慢が必要だった。
「これは、宿命だ」
「どうせ、オレなんて、
自分の好きなようには生きられない」
ネガティブ言葉が、父の口癖だった。
母もまた、同じく、だった。
「自分の好きになんて、生きられない」
「私の人生なんて、全然、面白くない」
しょっちゅう、暗い言葉を発していた。
「娘時代は、
おじいちゃんの腰巾着(こしぎんちゃく)だった・・・」
警察のエライさんだった祖父が、
日本各地を転々としていた頃、
祖母の代わりを務めつつ、
ずっと連れ添っていたのだという。
「おばあちゃんは、
病弱だったお姉ちゃんの面倒をみるため、
同行できなかった」
立派な官舎に暮らす“お嬢様”でもあった母。
その実、友人を作ることも叶わず、
寂しかったそうだ。
母を溺愛した祖父は、
過保護、過干渉であったらしい。
「人生でたった一度の、大恋愛」
だった相手との交際も許さなかった。
理由は“警察官”だったから。
“警察官”は、
「何かあった場合、
自分の命を投げ出して、人を助ける仕事」
であり、
「そんな危ない仕事のモノは、ダメだ。
娘を幸せにできない」
という理屈。
「おじいちゃんだって、同じ仕事でしょ!?」
と、言った口答えも許されず・・・
母は観念するしかなかったという。
母は、
祖父も祖母も、最後まで看取った。
祖母においては、
93歳でなくなるまで、在宅介護だった。
「親の面倒を最期まで、みた」
それが、母の自負だった。
「実の“娘”に
ここまで細やかに、
介護してもらえる“親”は、幸せモノだ」
母は、介護中、よく言っていた。
が、反面、愚痴るシーンも多々あった。
「いっこも(全く)、自分のスキにできない。
やりたいように生きてはいけない」
母は、専業主婦で、
一度も世間で働いたことはない。
「私は、もう、
エエねん(いいの)○○が幸せになってくれれば・・・」
○○の中には、ワタシと姉の名前が入る。
娘の幸せだけが、
楽しみで、生きていると言った風だった。
父と母のことで、
ザザッと知っておいて欲しい情報をあげたわけだが、
さて、話をちょこっと元に戻そう。
母の介護を父は拒否した。
「ずーっと我慢して生きて来たのに、
どうして、母さんの面倒を、
みナイといけないんだ!?」
ここだけに焦点を当てると
「お父さん、それは、あかんわ!愛がない!」
かも知れないが、
立場が反対だったら、どうだったろう?
認知症に、父がなり、
母が介護する立場だったら・・・?
実の親を題材にするは、
キツいが、リアルに考えやすく、
認識の幅が広がれば、勉強になり、
即、実践に応用もデキル。
なんたって、
「ファミリー・トラブルは愛の勉強」
だから・・・
この続きも、
少々お付き合いくださいませ。
続く第2924話へ
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今、母は、施設に入っている。
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姉、ヒロコの情報によれば、母は軽度な方だと言う。
病(やまい)特有の症状はあるものの、
自分のことは自分でデキルし、
家事もやる気があり、料理もこなす。
「もし、お父さんさえソノ気になったら、
施設に入れる必要なんてない」
BY ヒロコ
十分、在宅で介護できる範囲内だという。
が、父は拒否した。
「ずーっと我慢して生きて来たのに、
どうして、母さんの面倒を、
みナイといけないんだ!?」
“ずーっと我慢”の内容を話しておこう。
父の田舎は長野県。
義務教育過程終了ソコソコに、畑仕事を強いられた。
父は、勉強がスキだった。
進学を望んでいた。
が、
「次男に、その必要なし」
一方、長男サンは、
大学まで卒業させてもらっている。
父は、そのことをずーっと恨んでいた。
反面、父にとって“信州・安曇野”は、
“思い出深いふるさと”であり“執着の地”
でも、あった。
結婚後も長野の実家にだけは、
中元、歳暮を送り続け、
“良い顔”を貫こうとした。
ソンナコンナで、
父と母は、しょっちゅうモメていた。
今から思えば“養子”になったのも、
“我慢”によるものだったのかも知れない。
「妻の性を名乗り、家・財産を継ぐ」
父にとって、
相当なプレッシャーだったろうが、
余命わずかだった祖父の遺言によるもので、
誰も反対できない状況だった。
「立派な家を継がせてもらって・・・」
と、感謝の気持ちも本当だったろう、
しかし、反面、
祖父と比べられるポジションを嫌っていたはず。
ここでもモロモロ我慢が必要だった。
「これは、宿命だ」
「どうせ、オレなんて、
自分の好きなようには生きられない」
ネガティブ言葉が、父の口癖だった。
母もまた、同じく、だった。
「自分の好きになんて、生きられない」
「私の人生なんて、全然、面白くない」
しょっちゅう、暗い言葉を発していた。
「娘時代は、
おじいちゃんの腰巾着(こしぎんちゃく)だった・・・」
警察のエライさんだった祖父が、
日本各地を転々としていた頃、
祖母の代わりを務めつつ、
ずっと連れ添っていたのだという。
「おばあちゃんは、
病弱だったお姉ちゃんの面倒をみるため、
同行できなかった」
立派な官舎に暮らす“お嬢様”でもあった母。
その実、友人を作ることも叶わず、
寂しかったそうだ。
母を溺愛した祖父は、
過保護、過干渉であったらしい。
「人生でたった一度の、大恋愛」
だった相手との交際も許さなかった。
理由は“警察官”だったから。
“警察官”は、
「何かあった場合、
自分の命を投げ出して、人を助ける仕事」
であり、
「そんな危ない仕事のモノは、ダメだ。
娘を幸せにできない」
という理屈。
「おじいちゃんだって、同じ仕事でしょ!?」
と、言った口答えも許されず・・・
母は観念するしかなかったという。
母は、
祖父も祖母も、最後まで看取った。
祖母においては、
93歳でなくなるまで、在宅介護だった。
「親の面倒を最期まで、みた」
それが、母の自負だった。
「実の“娘”に
ここまで細やかに、
介護してもらえる“親”は、幸せモノだ」
母は、介護中、よく言っていた。
が、反面、愚痴るシーンも多々あった。
「いっこも(全く)、自分のスキにできない。
やりたいように生きてはいけない」
母は、専業主婦で、
一度も世間で働いたことはない。
「私は、もう、
エエねん(いいの)○○が幸せになってくれれば・・・」
○○の中には、ワタシと姉の名前が入る。
娘の幸せだけが、
楽しみで、生きていると言った風だった。
父と母のことで、
ザザッと知っておいて欲しい情報をあげたわけだが、
さて、話をちょこっと元に戻そう。
母の介護を父は拒否した。
「ずーっと我慢して生きて来たのに、
どうして、母さんの面倒を、
みナイといけないんだ!?」
ここだけに焦点を当てると
「お父さん、それは、あかんわ!愛がない!」
かも知れないが、
立場が反対だったら、どうだったろう?
認知症に、父がなり、
母が介護する立場だったら・・・?
実の親を題材にするは、
キツいが、リアルに考えやすく、
認識の幅が広がれば、勉強になり、
即、実践に応用もデキル。
なんたって、
「ファミリー・トラブルは愛の勉強」
だから・・・
この続きも、
少々お付き合いくださいませ。
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